エコクリティシズム/環境批評 [ecocriticism / environmental criticism]

 「エコクリティシズム(ecocriticism)」とは、20世紀後半における地球環境の破壊に対する危機意識を背景に形成された、生態学における諸概念や哲学などに見られるエコロジカルな思想を取り入れた文学批評のジャンルである。環境破壊の拡大に対し、文学の分野から積極的に関わっていくという姿勢、そして文学作品やその研究が環境問題の考察に少なからず貢献するという意識がその特徴として挙げられる。「環境批評(environmental criticism)」とは、2005年にL・ビュエル(Lawrence Buell)がエコクリティシズムに代わる名称として提唱したもの。従来の「(原生)自然」に重きをおいた研究の範囲を拡大し、社会における種々のイデオロギーや制度とも交錯するハイブリッドな領域としての「環境」を射程に入れることが意図されている。しかしながら現在でも「エコクリティシズム」がこの批評ジャンルを示す名称として一般的に使用されている。

 エコクリティシズムという用語自体は、1978年のW・リュカート(William Rueckert)による“Literature and Ecology: An Experiment in Ecocriticism”という論文(Glotfelty and Fromm 105-23)において初めて使用された。リュカート自身はその語を、人間と自然という「二つの共同体が生物圏において共存し、協力し、そして繁栄する」方法を模索するための「実験的批評」としている(Glotfelty and Fromm 106-07)。また生態系におけるエネルギーの流れと同様の関係性を作家、文学作品、そして読者のつながりの中に見出し、そこで相互依存と共生の意識が生み出されることを期待している。この時期に文学批評とエコロジーとの関係に注目したのはリュカートだけではない。例えば1972年にはすでに、J・ミーカー(Joseph Meeker)によって喜劇というジャンルをエコロジカルなヴィジョンと関係づけた『喜劇とエコロジー』(邦訳1975年、改題新版1988年)が出版されている。

 しかしながら、エコクリティシズムが一つのまとまった動きとして文学批評の分野に現われてきたのは、1990年代に入ってからのことである。1992年のASLE-USの設立を経て、1996年にそれまでの研究の集積としてThe Ecocriticism Readerが出版された。その編者であるC・グロトフェルティ(Cheryll Glotfelty)による序文において、文学批評全体におけるエコクリティシズムの位置づけが初めてなされたと言える。彼女によれば、当時の文学研究においては人種、階級、そしてジェンダーが重要な批評カテゴリーとして認知されていたものの、そこに環境に対する関心は全く見られなかったという。それに対しエコクリティシズムは、「『世界』という概念」を人間の社会だけでなく「生態圏全体にまで拡大する」ことを狙いとする「地球中心のアプローチをとる」とされている。さらに基本的前提として「人間文化は物理的世界とつながっている」こと、そして主題としては「自然と文化、特に言語や文学といった文化的構築物との相互関係」がそれぞれ挙げられている(Glotfelty and Fromm xviii-xix)。このグロトフェルティによる概観には、テクストもしくはイデオロギーにのみ目を向けがちであった当時のポスト構造主義以降の文学批評に対して、文化や社会の基盤として確かに存在する自然環境を強調するエコクリティシズムの立場がよく表れている。しかし同時にそこには反動的な傾向も見出されることは否定できず、その点が後に問題視されることとなる。

 1990年代にはエコクリティシズムに関する多くの研究書が出版されるようになったが、代表的な研究としては、H・D・ソロー(Henry David Thoreau)を参照点として、「環境的想像力(environmental imagination)」という観点からアメリカ文学における正典(キャノン)の再検討を試みるビュエルのThe Environmental Imagination(1995)と、新歴史主義批評によるイデオロギー的読解に対して、「赤から緑へ」というスローガンのもとにW・ワーズワス(William Wordsworth)のテクストに存在する環境意識の伝統の源流を評価しようとするJ・ベイト(Jonathan Bate)の『ロマン派のエコロジー』(1991)が挙げられる。

 一方で2000年以降には、エコクリティシズム内部からその批評方法を問い直そうとする論考が数多くみられるようになっている。それらが取り上げる問題点は、主に二つの方向に集約することができる。まず自然環境、作家、そして作品のつながりに対する素朴な意識を問い直す姿勢が挙げられる。エコクリティシズムは、自然環境が人間により疎外されているという問題意識に基づいている。よってそこでは、両者の直接的な関係を描き出す(とされる)ネイチャーライティングのようなノンフィクションのリアリズム形式のテクストが好まれる傾向がある。しかしながらD・フィリップス(Dana Phillips)は、過度のミメーシスは媒介としてのテクストをできる限り透明にすることを望むがゆえに、テクストを「冗長さのみがあるだけの硬い皮」としてしまうという。そこでは構造主義以降の批評理論が示してきたテクストの複雑な意味生成の可能性が否定されてしまうということ、そして自然を直接的に知覚し表現する作家の「天才」を賛美するという「一種のファンクラブ」的な批評が生産されることへの懸念が示されている(Phillips 16、135)。

 エコクリティシズムに見出されるもう一つの問題点として、「(原生)自然」への過度の偏向が挙げられる。グロトフェルティが述べていたように、エコクリティシズムは文学批評における自然環境の重要性を示すことをその目的としてきた。しかし今度はそこで文化や社会などの人間による活動が等閑視されていることが、逆に問題とされてきたのである。G・ガラード(Greg Garrard)は、エコクリティシズムに多く見られる純粋な自然としてのウィルダネスの賛美について、そうした純粋さは「自身を生み出す社会的そして政治的な歴史を抹消」することで成り立っているのであり、ゆえに「反動的な政治性へと至る」と言う(Garrard 71)。穢れの無い善き自然という概念に価値を付与しているのは実は文化であり、よってその存在を完全に否定することは、そういった価値基準自体を否定することになり、考察としては不十分なものとなる。

 上記のような問題意識を受けて、ビュエルが提唱したのが「環境批評」である。これは単に「エコクリティシズム」から名称を変えただけではなく、批評における意識の転換をも示している。ビュエルは従来のエコクリティシズムを「第一波」とし、それに対する「第二波」の環境批評は「『自然的なもの』のみの領域を超えて環境の概念を拡張」することを一つの特徴としていると言う。そして「文学や歴史において『自然的な』そして『社会的な』環境がいかにお互いに影響を与えあっているか」に注目すること、また「人間の最も本質的な欲求のみならず、それらの要求とは無関係な地球と地球上の人間以外の生物の状況と運命にも人間が対応すること」の重要性を訴えている(ビュエル 147)。このような環境批評の可能性の一つとしてビュエルが示すのが、「21世紀初頭のエコクリティシズムの最大の挑戦」ともされる環境正義(environmental justice)の視点に基づいた批評である(ビュエル 163)。その実践としてはJ・アダムソン(Joni Adamson)らが編集したThe Environmental Justice Reader(2002)や、2008年に出版されたS・スロビック(Scott Slovic)らによる『エコトピアと環境正義の文学』などが挙げられる。

(巴山岳人)

 

参考文献

・ローレンス・ビュエル『環境批評の未来―環境危機と文学的想像力』伊藤詔子他訳(音羽書房鶴見書店、2007[原著:2005])

・ハロルド・フロム、ポーラ・G・アレン、ローレンス・ビュエル他『緑の文学批評―エコクリティシズム』伊藤詔子、横田由理、吉田美津他訳(松柏社、1998)

・ジョナサン・ベイト『ロマン派のエコロジー―ワーズワスと環境保護の伝統』小田友弥、石幡直樹訳(松柏社、2000[原著:1991])

・Garrard, Greg. Ecocriticism. Abingdon: Routledge, 2004.

・Glotfelty, Cheryll, and Harold Fromm, eds. The Ecocriticism Reader: Landmarks in Literary Ecology. Athens: U of Georgia P, 1996.

・Phillips, Dana. The Truth of Ecology: Nature, Culture, and Literature in America. Oxford: Oxford UP, 2003.

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